いのちと向き合う~孫の誕生と終末期在宅医療と

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先日、9月4日の早朝、長女に第二子が生まれました!

3058gの元気な女の赤ちゃん。

手放しで可愛い!!!

こんな立派ないのちが、あの娘のお腹に入っていたのね?!

それに、もうすでにこの赤ちゃんの子宮には、

また次のいのちを育むための卵子が用意されているなんて!

本当にこんな完璧な「いのちの暗号」を創ったのはいったい誰???

と改めて神秘を感じます。

 

これから二人の娘に囲まれて、長女の家はますます賑やかになることでしょう。

もうあまり私の出番は、なくなってきましたね。

ちょっと寂しいけれど、喜ぶべきことですから仕方ないですね・・・。

義父の方も、退院してから、もう4か月が経ちました。

誤嚥性肺炎を患い、入院先では1か月以上点滴のみで絶食状態が続いた義父です。

胃ろうなどの経口栄養摂取ではない方法も提案されましたが、断りました。

退院して何か食べたいとの本人の希望があったからです。

それから今の生活がはじまり、口から徐々に食べられるようになり、

7月には、白寿の祝いを無事に済ませました。

大正生まれの人の強い生命力と、ヒトとしての「本能」を感じると

いのちに対する向き合い方が、また深くなってきたように感じます。

 

「終活」という言葉が世の中に広まってから久しくなりました。

確か昨年も、吉本興業の芸人の小藪さんを起用した「人生会議」というタイトルのポスターが物議を醸し、

結局、破棄されたという出来事がありました。

 

遺産相続や延命治療をするかどうか?など、

元気なうちに家族で話し合っておく必要がある。

という主旨なので、「人生会議」は確かに大切なことだと思っています。

私は実両親を15年ほど前に、病院で看取ったのですが、

延命治療をどうするか医師に聞かれたとき、その話し合いをしていなかったので、

その頃の後悔があったからです。

 

今回、義父はすでに高齢ですし、元気なうちに話し合ってほしかったのですが、

主人はなかなか話を切り出せず、結局、今に至ってしまいました。

ただ、今こうして自宅で介護をしていると、

実両親を病院で看取ったときよりもっと、義父の「本能」を感じるのです。

例えば、元気で頭がしっかりしているときに、

延命治療なんてしないでほしいと言われていたとしても、

終末期になってくると「生きたい」という本能が勝るのではないかと・・・。

義父の食欲から「本能」を感じ、そんな風に思えてきたのでした。

いのちを想う時、それが本人の意志なのか?本能なのか?

そして、そのどちらを尊ぶべきものなのか?

 

そんなことを考えているうちに、

義父の終末期もだいぶ後半になってきたようで、

一日中、殆ど寝てるばかりで、食欲も減り、徐々に覇気がなくなってきました。

認知症の傾向だったのですが、それも逆に落ち着いてきたようでした。

入歯が合わなくなってしまったのもあって、

活舌も悪く、なかなか言葉が伝わりません。

血圧も上がったり下がったり、脈拍も早く、息も荒く、心配な状況です。

私を呼ぶ声も、か細いので、なるべく近くにいるようにしています。

まだ少しだけ食事をとることが出来ますが、嚥下機能の低下と同時に

痰がかなり絡まってしまうので思うように食が進まず、

食べ始められたとしても、すぐに眠気が勝ってしまうのです。

 

そうです。

「食欲」から「睡魔」へと移りゆく・・・

「生きたい」から「逝きたい」へ・・・なのでしょうか?

どちらにしても、どちらも「本能」なのです。

 

 

「今後、全く食事が喉を通らなくなってしまったら、

また点滴を再開するかどうか、考えておいてください。」

と、先日、訪問診療の医師に言われました。

 

主人は、また点滴をして貰って一日でも長生きしてもらいたいと

思っているようですが、その際、義父は意志を表明できるのでしょうか?

またできなかったとしたら、何をもって主人は判断するのでしょうか?

私は(その時の義父の意識にもよりますが)

もうこれ以上・・・と思っています。

 

脱水状態になって、枯れるようにいくのが一番自然で本人も楽に逝かれる。

というからです。

例えが、陳腐なのかもしれませんが、

農薬がたくさんかかった野菜は、ぐちゃぐちゃになっていくけれど、

農薬がかかっていない野菜は、枯れるように朽ちていく。

そんな状態に似ているのではないでしょうか?

 

 

看取ることを覚悟で、在宅介護を決めた今、

多少の薬の処方をしてもらってはいても、

病院に行って検査をすることは全くしませんでした。

なので、本人の気持ちを大前提とした上で、

2週間ごとの訪問診療の医師のアドバイスと

私たち夫婦の考え方を擦り合わせるわけです。

 

血圧が高くなり、大動脈瘤の破裂が心配でも、

熱燗を飲みたがれば、リスクを覚悟の上で飲ませる。

嚥下機能が落ちているのに、ハードルが高そうな食べ物を

本人が食べたがれば、痰の吸引のチューブを片手に食べさせる。

 

もう疲れ果てて、「いつまでこんな生活続くの?」という想いがあっても、

喉に詰まらせた時には、もちろん慌てて吸引しますし、

寝たきりなので、身体中の痛みを緩和するために

湿布の張替えやマッサージも施します。

 

今は介護サービスが充実してきていますし、本来ならもちろん居心地のよい

自宅で家族に見守られるのが理想的でしょうけれど、

実際、家族で看取ると言っても、経済的な問題や物理的な問題など

さまざまあります。

また、どんなにケアサービスが充実していても、

体力、精神力や咄嗟の処理能力など、どうしても在宅で看る人に

すべてが、かかります。

私は経験したことはありませんが、がん患者さんなど痛みも伴う場合、

緩和ケアも伴って、それはもっと深刻でしょう。

 

それでも在宅で看取りを覚悟した家族は、特に、

(もちろん病院であっても)

患者本人の「本能」をも見据えたうえで、

家族同士の「いのち」に対する考え方を

しっかり確認しあうこと・・・それが本当に大切だと感じました。

 

 

先日、こんな言葉に出会いました。

芳村思風先生の言葉です。

 

命には、命より大切なものがある。

人間の本質は心。心とは意味や価値を

感じる感性のこと。価値を感じたら命に

火がつく。命が意味や価値を感じたとき

「このためになら、死んでもいい」という

気持ちになる。生きたいと思っている

命が死んでもいいと思えるほどの意味

を感じたとき、命は最高に輝き、最高に

喜び、命には、命より大切なものがある

と気づく。感じてこそ人生なのです。

 

 

これからの日々で、また私の想いは、変わるのかもしれません。

ただこれが、今の私が私なりに、一生懸命いのちと向き合いながら、

感じていることです。

 

そう・・・感じている・・・。

悩んでいる・・・。

生きているのですから・・・。

 

投稿者プロフィール

MOTHERS NET
*個性豊かな4人の子どもと夫との、ステップファミリーです。

離婚、子連れ再婚やいじめ問題、不登校、両親の死などの
経験のそのすべては、本当の自分に還るための、より豊かに幸せに生きるための贈り物であったことに、あとから気づかされ、

これからは、「本当の自分」を大切にし、魂がワクワク喜ぶ人生にシフトチェンジして、

絵本や絵やポストカードなどを創作しています。

それは、心の扉を開いたとき、

「本当の自分」を大切に守ることができる「宝石箱」。

それが、この地球に生まれてきてくれた子どもたちが、贈ってくれている
なによりものメッセージではないかと思うからです。

日々の、その一瞬の色や光を ゆっくり味わい感じ入ること。
そんな自分を大切に信じること。
出会った家族や友人、恩師、知人とともに創造する人生を尊重し合うこと。
をモットーにブログを綴っています。


*自分の原点ともいえる、親との関係を振り返ったとき、弱い自分を認めて受け容れたとき、ました。

*このブログでは、子育てやパートナーシップや仕事に挫折した私が、
自分の人生を振り返り、本当の自分に還って、私の感性を取り戻し、私が最も大切にしたいことや夢や生きたかった人生を創造していくさまをそのまま綴っています。

*色や光で自分を解放しながら、自分自身と向き合い、私が好きな世界観を表現し、森羅万象の一部として、静かに命を味わい尽くしたいと思っています。












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